ゆめのような

1.

「君は今の今までずうっと、死んでいたんだなあ」

初めて橋本さんと二人きりになったとき、そうぼそっとつぶやくと、彼女はやっと笑った。

「そう。わたしってなんだかゾンビみたい」


橋本さんはいつも僕のうしろをついて回っている。慶喜君、慶喜君って何度も呼んでは僕のうしろでうろちょろしている。用事がなくたって僕を呼ぶ。なんでもないときや、なんでもあるときも僕を呼ぶ。橋本さんには僕の他に名前を呼ぶ相手がいないから。橋本さんはいじめられっ子で、そんな彼女に同情して、僕は何度か橋本さんに何気ない挨拶をしたりしていた。そしたらこれだ、優しくされたことなんかないものだから、橋本さんは目を見張るようなスピードで僕になついてしまった。そして今に至る。橋本さんがどうしていじめられているのかだなんて、僕は知らないけど、きっと彼女にはそういうオーラがあるんだと思う。いじめやすい人のにおいがするんだと思う。何度も何度も僕の名ばかり呼ぶ橋本さんは、教室ではいつもうつむいて、きのこでも生えてしまいそうなくらいに陰気な空気を背負っている。死んだ魚の目、なんてことをよく聞くけれども、橋本さんの目を見たときは、まさにこのことだなと一人納得したものだ。少ないけど長めの睫毛でかばう瞳はいつも人の足下を見ていた。それが僕の知っている教室での橋本さん。
「慶喜君、あのね、わたしこの間あたらしい本を買ったの」
旧校舎の裏側で僕と話す橋本さんは、教室の橋本さんとはまるで別の人間のように思えた。
「僕はあんまり本とか読まないから、そういう話わからないなあ」
「うん、わたしも慶喜君の喜ぶ話題じゃないと思ってた」
旧校舎裏での橋本さんはよく笑う。最初はすこし引きつっていたような気がするけど、最近ではそんなことちっとも思わせない。すごく上手に笑う女の子だ。つられて僕も笑ってしまったりする。僕らの笑い方は教室で笑う子たちとは少し違って、大笑いとか、そういう賑やかな笑い方じゃなくて、ゆっくりと笑う。
「慶喜君の趣味って、わたしとちっとも合わないんだもの」
ほんとうだね、そう言って僕は空を見ていた。橋本さんも少しだけ笑って、同じように空を見ていた。
「ねえ、慶喜君。慶喜君はどうやって友達をつくるの?」
橋本さんはまだ空を見上げている。僕は橋本さんを見ている。
「橋本さんと友達となったみたいにだよ」
橋本さんはうごかない。すこし微笑んでいるけれども、そこから口角をあげたりさげたりしないで、じっとそのままの表情。少し黙って、橋本さんの唇に小さなすきまが開く。
「じゃあわたしには、無理だなあ」
「どうして」
「みんなわたしのこと、怖がってるから」
橋本さんがこっちを向いた。僕らは向き合ったまま動かない。橋本さんのさらに向こうの空で飛行機雲が伸びていく。
「怖いからいじめるんだ。きっとそう。みんなはわたしから自分を守ってる」
「そうしないと橋本さんがみんなをいじめるんだ?」
「違うよ」
そういえば慶喜君は、わたしと小学校が違ったね、そう、だからだよね。橋本さんは確認するみたいに小さくつぶやいた。僕に声が届くか届かないか、ぎりぎりの大きさで。
「わたしね、五年生のとき、教室で人を刺したの」
相手の子は、それから学校に来なくなっちゃった。唇が止まれば橋本さんの表情も止まる。淡々と。なにかのボタンを順序よく押す作業みたいなしゃべり方。
「その人、死んだの?」
「生きてるけど、なんか変な病気になっちゃった。人が怖いんだって。変な薬飲んでるって聞いたよ」
右手の指を二本立てる。ピースサインの間になにか挟んだような。開いて閉じて、開いて閉じる。橋本さんの視線は、橋本さんの手を見ている。そのまま橋本さんは顔を伏せた。
「はさみ」
橋本さんの指は、まだゆっくり動いている。
「柄が淡い緑のはさみでね、おなかの、横らへん。あと太ももだっけな。右か左は忘れちゃった。そこを刺したの。相手の子はね、すごくびっくりしてたよ」
でもすぐに泣いちゃった。痛そうだったなあ。橋本さんは続ける。
「その人、わたしのこといじめてなかったけど、嫌われているような気はしてたんだ」
顔を伏せたまま橋本さんのはさみは動く。チョキ、チョキ。なんだか今にも、紙を切るはさみの音が聞こえてきそうに思えた。
「みんな知ってるんだろうなあ。わたしに殺されると思ってるんだろうなあ。殺される前に殺してやる、そんな風に思われているんだろうなあ」
でも、それが普通だよね。みんな自分が一番大切なんだもの。慶喜君も、わたしも、ね。顔を上げた橋本さんは、さっきとちっともかわらない顔をしていた。すこしだけ微笑んで、ぼくの目のやや下を眺めていた。



2.

わたしは自分を守ろうとした。自分を傷つける人を、傷つけられる前に傷つけてやろうと思った。ただそれだけ。自分を守るのは当たり前のこと。自分のしてしまったことをわたしは一度たりとも後悔したことはないし、悔やんでもいない。だって、もしかしたら、あのとき刺されていたのはあの子なんかじゃなくて、このわたし自身だったのかもしれないんだもの。ね、それってすごく怖いことでしょ。

わたしが刺したらあの子は痛がって泣き出した。痛いよ、死んじゃうよ、なんて言いながら泣き出した。そんなことが言えるうちはね、死んだりなんかしないんだよ。周りの子だってつられて泣き出した。でもだれも近寄ったりしないの。わたしと、あの子、そしてみんな。まあるい輪になって、寄り添って、なんだかみんな、わたしとあの子をとりかこむフラフープみたいだ。踊ってみんなをくるくる回してしまった方が、よかったのかしら?でもだめかもね、わたし、運動はあまり得意じゃないんだもの。すぐにからんからんと音を立てて、まあるいわっかが物寂しく床の上を跳ねちゃうわ。フラフープがわたしにこう言うの、ひとごろしって言うの。すごく失礼だと思った。そんなの、誰かを殺してから言うものだよね、わたしは誰も殺してないのに、どうしてそんなこと言われなきゃだめなの?わたしは未来を見ただけだもの。一歩先に進んだ正当防衛ってやつだったのよ、あれは。


「橋本さん、おはよう」

中学に上がって、みんながわたしをすごく怖がっているのがわかった。調理実習ではいつもまな板から一番遠い位置に追いやられた。教室ではいつも真ん中の席で、席替えしたって席はちっとも動かない。わたしを見えないところに置くのが、みんな怖いんだ。慶喜君が初めてわたしに声をかけてくれたのは、いいのかわるいのかと聞かれたら、ちょっとわるいかな、そんな薄曇りの空をした日で、その日は寒いのか暑いのかと聞かれたら、よくわからないような気温の日でもあった。慶喜君はわたしを怖がっていなかった。あ、この人、知らないんだ。知らないってことは、この人はわたしを殺さない人なんだ。わたしはすぐわかった。なのに、わたしは上手におはようって返すことが出来なくて、すこしだけ肩を跳ねさせてはうつむいた。慶喜君はそんなことちっとも気にしないみたいに、そのまま自分の席へと歩いていってしまった。それからだ。慶喜君はたまにわたしに話しかけてくれるようになった。おはようとか、ばいばいだとか、普通の言葉をわたしにくれた。驚いた。でも、その普通の言葉がうれしくもあった。わたしもいつのまにか、普通の言葉を返せるようになった。殺されるとか、殺してやるとか、そういうもののないきれいな世界に足を踏み入れることが出来たような気がした。わたしは慶喜君の名前を覚えた。慶喜君はわたしの名前を知っていたけれども、わたしは慶喜君の名前を知らなかったから。机の横に貼られている名前シール。男の子も女の子も同じくすんだ青の縁取りで、その輪の中に慶喜君の名前が書いてあった。井川慶喜。い・が・わ・け・い・き。わたしは慶喜君の名前をすぐに覚えることが出来た。漢字だって、間違わずにすらすら書けるんだよ。慶喜君。あの子の名前は、慶喜君。名前を覚えるとわたしは慶喜君の名前を呼ぶようになった。慶喜君、慶喜君、あのね慶喜君、ううん、なんでもないの慶喜君。慶喜君はわたしを攻撃しなかったし、自分のことも守っていなかった。そんな彼はものすごくきれいな存在に思えたし、そんな彼にわたしはものすごく憧れた。慶喜君、慶喜君、あなたはきれい。ほんのり香る整髪料の香りも、無造作に跳ねた毛先も、整った鼻筋も、わたしに掛ける言葉も声も、丸まった爪だって、全部、全部、全部きれいに思えた。というか、本当にこの子はきれいなんだ。心の底からそう思った。わたしも慶喜君のようになりたいな。慶喜君はわたしの理想の慶喜君なんだ。

慶喜君はやさしかった。世界でいちばんやさしかった。きっと、慶喜君は普通にしていただけなんだろうけれど、誰よりもやさしかった。お父さんやお母さんなんかよりも、ずっとずっとやさしくて、声だって瞳だってやわらかくて透き通っていて、そのたびにわたしは慶喜君はほんとうにきれいな存在なんだと実感した。
「慶喜君、おはよう」
初めて慶喜君に自分から声を掛けたとき、慶喜君はすこしだけ嬉しそうな顔をしてくれた。橋本さん、おはよう。やわらかく笑って挨拶を返してくれた。わたしも慶喜君のようにゆっくり笑えるようになればいいな。やわらかくて、透明で、あったかい表情が出来るようになればいいな。家に帰っては鏡とにらめっこをしたり、何度も何度も、何日も何日もわたしは練習した。慶喜君のようになりたいな。でも慶喜君の笑い方は慶喜君じゃなきゃ出来ないんだ。ちっとも慶喜君のように笑えないよ。それでもわたしは毎日鏡を見ていた。この鏡に映る自分の顔はあまり好きじゃないけれども、慶喜君の顔を思い出すとなんだかこれはものすごく楽しい行為に思えて仕方なかった。慶喜君はほんとうに姿勢のきれいな男の子で、覗いたノートに並ぶ慶喜君の書いた文字だって、まだ世界でだれも到達したことがないような美しい場所でただ凛と咲き誇る花のように見えた。いいな、いいな、慶喜君はいいな。寝ても覚めても慶喜君のことばかり考えていた。いいな、いいな、わたしも慶喜君になりたいな。慶喜君はわたしが見るかぎり、わたしのことを好きでも嫌いでもなかったように思う。そこにすら惹かれた。きっと、慶喜君ならなんでもいいんだ。だって慶喜君は、ほんとうにすごいんだよ。ほんとうに、きれいできれいで仕方ないんだよ。
「慶喜、おはよう」
慶喜君に話しかける他の人がきらいだった。わたし以外に慶喜君の名前を呼ばれるのがいやだった。ねえ、やめて、あなたたちは言っちゃだめなんだよ。け・い・き。この三文字を言わないで生きてごらんよ。そしたらどうなるかって?わたしが嬉しくなるの。それだけ。でもね、それって一番大切なことでしょう。だから、呼ばないで。呼ばないで。その名前を呼ばないで。慶喜君が汚れちゃう。きれいな、きれいな慶喜君を汚さないでよ。
「おはよう、×××」
「×××、ばいばい」
慶喜君の声。他の人に話しかける声。答える声。わたしはその名前にモザイクをかけた。聞きたくないもの。だめだよ慶喜君、そいつら汚いんだよ。慶喜君が言うような名前じゃないんだよ。ねえ、慶喜君、おねがいだから、おねがいだから言わないで。でもわたしは大事なことに気づいた。気づいてしまった。橋本さん、その名前だって、汚い人の、名前だってことに。



3.

橋本さんが誰かを刺した。なんだか夢のようで信じられない話ではあったけれど、橋本さんは嘘をつけるような子ではないって根拠もなく思っていたから。嘘が上手いなら、橋本さんはもっと楽に生きれているように思うから。それもまた失礼な話ではあるけれども。誰かに尋ねてみてもよかったのだけれど、それもなんだか気が引けるような行為だった。僕には人にいじめられた経験がないし、いじめに荷担した経験もない。荷担と言っても、実行犯を指しているわけで、いじめに気づいてなにもしなかった僕が無罪であるとは言い切れない。言い改めようか、僕は実行犯ではないけれども、見逃したことなら何度もある。そんな僕が、今、誰といるか。いじめられっ子の橋本さんだ。彼女に話しかけられる度に、心臓をギュッと掴まれているような、そんな罪悪感にも駆られていた。人に刺されるのって、それはもう怖いんだろうな、でも、刺すのだって同じくらい怖いんだろうな。そんなことをぼんやりと考えていた。ほんとうに、夢みたいだ。

「慶喜君、あのね、慶喜君、ううん、なんでもないの」
橋本さんはほんとうによく僕になついてくれた。あんな普通の挨拶が、彼女にとっては普通じゃなかったから。学校での彼女に普通はなかったから。
「そう」
うん、そうなの、なんでもないの、そう言ってゆっくり笑った。僕の自惚れなのかもしれないけれど、橋本さんはいつも嬉しそうに僕の名前を発音する。そっか、僕も少しだけ笑った。何度も何度も、いつも無駄に僕の名前を呼んだ。いつも僕の後ろを歩いた。
「慶喜君、あのね、あのね」
旧校舎裏にいる橋本さんはいつも饒舌だ。するすると舞うように舌が回る。教室ではあまり話さない。挨拶か、僕の名前を呼ぶか。おはよう、ばいばい、慶喜君。この三言で橋本さんの発言は終わる。
「なに、橋本さん」
僕自身だって、自分では教室でも旧校舎裏でも同じように彼女と会話しているつもりではあるけれども、もしかするとどこか違っているのかもしれない。語彙の数とか、態度とか、視線とか、自分では気づいてないいろんなものが。
「慶喜君はわたしのこと、こわくないの?」
「こわくないよ」
「わたしに刺されちゃうとか、思わないの?」
「思わないよ」
そう、そっか、よかった、うれしいな。橋本さんは言った。すこし照れたような、恥ずかしいような、そんな顔で笑った。
「橋本さんはこわくなんかないよ」
一番怖いのは君と平気な顔で話しているこの僕だよ。思うだけで口には出さなかった。出せなかった。心のどこかで彼女に敵だと認識されるのをおそれていたから。自分を守らなきゃだめなんだ。気づかれないように、そっと。彼女が微笑んでいる間は特に。

「慶喜君、慶喜君あのね……」

僕は橋本さんに謝らなきゃいけないことがある。ごめん、ごめんね橋本さん。君は僕を知らなかった。だけども僕は君を知っていた。よく、よく知っていたよ。出会う前から君を知っていた。僕が君を知ったのは、君と初めて挨拶を交わした日よりずっと以前なんだ。だけど、これだけは信じて欲しい。君に同情したあの気持ちだけは、僕の心からの本当の気持ちなんだよ。僕は君とは違う。嘘も上手くて、自分の立ち位置もちゃんとわきまえている。早く、早く、今の今まで僕が見逃してきたすべてを君に伝えたい。あせる気持ちとは裏腹に、君に同情する気持ちだけが確実に大きく、大きく膨らんでは広がって、ただ、すべてを悟られるのが怖かった。

怖いのは君じゃない、君の隣に今座っている僕なんだ。



4.

あの子の名前はなんだっけな。わたしのことが嫌いだったあの子の名前。ふと思い出したあの子の存在、だけど思い出せないあの子の名前。あの子のすべて。存在以外のすべて。あの出来事は、今となっては夢のよう。うすぼんやりとした記憶。わたしの中でのあの子はもう死んでいた。けど、あの肉を刺す感触だけが離れない。


「橋本さん、よかったら一緒に弁当食べない?」

初めて慶喜君にさそわれたあの日の日差しは、鋭くて堅いなにかの棘のようで痛かった。伸びろ、伸びろ、もっと伸びろ入道雲。あの邪魔な太陽を隠してよ。そのくらい暑い夏の日のこと。暑さのあまり幻聴を聞いたのかな、そんな風にも思えてしまった。わたしにとってはそのくらい衝撃的な出来事だった。両手で支えていた文庫本が、するりと指のあいだから抜けだし、ぱたりと音を立てて机の上に仰向けに倒れて、閉じた。読むためなんかじゃなくて、顔を伏せるために開いていただけだから、別に構わないのだけれど。驚きのあまりにかたまるわたしがその返事をすることを慶喜君は待ってた。じっと待ってた。返事に迷うことはないけれども、これはほんとうに現実なのか、それとも白昼夢なのか。その分別にひどく困った。いい日陰があるんだよ。慶喜君は言った。わたしは頷いた。声は出なかった。嬉しくて、嬉しくて、それこそ夢のように思えたから。
ひどくいやらしい夏の日差しも、慶喜君が案内してくれた場所には届かなくて、慶喜君みたいにやさしい風だけがそっと彼の髪を揺らした。涼しい日陰に腰を下ろす慶喜君は、干上がるような暑さから逃れることが出来てほっとした、そんな顔をしていた。そんな彼を見ていると、わたしの夏に対する憎しみまで嘘のように凪いでしまった。
「迷惑だったかな」
慶喜君がわたしに問いかける。ううん、ちっとも、ありがとう慶喜君。そうか、よかった。慶喜君は笑った。わたしの好きな笑い方。きれい。わたしも笑った。家で何度も練習した、慶喜君の笑い方。
「橋本さんもそんな顔するんだね」
「どんな顔?」
「今みたいな顔だよ」
慶喜君のまねをしたんだよ、いっぱい練習したんだよ。でもそんな事は言えなかった。彼に変な風に思われるのはいやだったから。どうかな、わたしの物真似。慶喜君みたいに上手に笑えたのかな、家だとちっとも上手くいかないんだよ、慶喜君みたいにきれいにならないの、でも、慶喜君は今、褒めてくれたんだ、よね?
「わたし、笑うとぶすだよね」
ありがとうって言えばいいのに、わたしのばか。最低だ。でも本当にぶすなんだもの。慶喜君のまねだなんて言えない。慶喜君にはなれない。でも慶喜君は微笑んでくれた。
「そんなことない、かわいいよ」
睫毛、長いんだね。慶喜君は言ってくれた。そんなことないよ、そんなことないよ、慶喜君だって睫毛長いじゃない、わたしなんかよりも、長くてきれいな睫毛を揺らすじゃない。顔が熱くなった。熱があるのかもしれない。慶喜君と話すと熱が出るの。いろんなところから、熱が出るの。慶喜君、慶喜君、きれいな慶喜君。あんまり優しくされると、わたし、慶喜君の前で声が出なくなる。
「教室とは別人みたいだね」
慶喜君がお弁当の包みを開く。ああ、きれいな指だなあ。そのお弁当箱、わたしとあまりサイズが変わらないね、足りるのかな、慶喜君は男の子なんだから、もっと食べなきゃだめだよ。
「死体みたいなの」
わたしもお弁当の包みを開く。慶喜君と一緒に食べられるのはうれしいけど、食べているところを見られるのは、ちょっと恥ずかしいな、お行儀よくしないと。大変だな、でも嬉しいな。あ、慶喜君がこっちを見てる。横目でちらっとみた慶喜君は、ちょっとだけ固まっているように思えた。
「それじゃあ、君は今の今までずうっと、死んでいたんだなあ」
そっと笑う。冗談を言う慶喜君の顔はきれい。慶喜君に見とれるあまりに、わたしは笑うのを忘れていた。いつもの物真似、うまくできない、もっと笑っちゃう、こんなの全然慶喜君の笑い方じゃない。あんなに毎日練習したのにな、もっと練習しなきゃだめなのかな。
「そう。わたしってなんだかゾンビみたい」



5.

「大丈夫だよ、柚上さん」
この声、なんだかいらっとする。
「そんなんじゃ、人間って死なないんだよ。丈夫だもの」
そんなこと、ないよ。痛い、痛い、いたいよすごくいたいよ死んじゃうかもしれない大丈夫じゃないよいたいいたいよわたしがなにをしたっていうの!



柚上汀を知っている。柚上汀は親しい友人から「なぎ」と呼ばれている。柚上汀は俗に言うクラスの人気者と言ったような人物で、いつも誰かを引き連れて歩いていた。はつらつとし、いつもほがらかでもあり、やや感情の起伏が激しいものの、どこへ投げ入れてもすんなり周囲に溶け込むどころか、いつのまにか輪の中心になってしまっているような少女、それが柚上汀。柚上汀を知っている。そんな柚上汀を誰もが知っていたし、多くの人が慕っていた。柚上汀が橋本真知代に刺されるまでは。それからの柚上汀を知っている人はあまりいない。存在だけを知っている。中身がからのうつわだけの存在、昔話の登場人物。外殻だけの希薄な存在。流れてくるのは噂だけ。それが柚上汀。柚上汀を知っている。柚上汀を知っていた。それは今ではもう、夢のような存在。



6.

生きているように死んでいる、死んでいるように生きている。そんなものは大して珍しいものじゃない。周囲を見回せば、ほら、そこに、あそこに、どこに、いる。たとえば教室にいるときの、君。たとえば君の隣にいる、僕。たとえば、それは。

彼女との接点が欲しい。そう初めて思ったのはもう随分昔のことになる。普通にでいい、ゆっくりでいい。彼女との接点が欲しい。些細でいい、それが広がれば、それが根付けばなんだっていい。そう思っていた。
「橋本さん、おはよう」
簡単だった。そう言えばいいだけ。普通のことをすればいいだけ。傍観者の一人から抜け出すこと。それが僕の選んだ一歩。歩みは慎重に、ゆっくりと、考えて、考えて、考えて進む、それは確実に。彼女は僕の狡猾さに気づかない。それは僕にとって何よりもありがたいことだった。返ってこない返事も覚悟の上ではあったし、さほど気にならなかった。周囲から多少不思議がられたものの、自分の普段の立ち振る舞いからか、周囲もすぐに僕の行動を気にしなくなった。僕は自分を褒めた。だけどもその行動に彼女への同情がこもっていたのもまた事実で、自分の感情のどこを表せばいいのかその塩梅にひどく悩んだりもした。
「慶喜君、おはよう」
この一言を耳にするまでに当たって、僕は多々の杞憂を重ねつ進んだものの、いつのまにか彼女も僕の名を覚え、呼称し、この存在を認めてくれるようになった。ゆっくりと僕に小さく微笑み返す彼女の姿には、時折自分を映す鏡を見ているような、えもいわれぬ錯覚のようなものを感じた。罪悪感、憎しみ、哀れみ、いらだち、焦燥感、彼女が僕の視界に入り込む度にいろんなものが僕の心臓を抉った。嘘をつくのにはもうなれたけれども、この痛みにだけはなかなか慣れきることが出来なかった。慶喜君あのね、あのね、慶喜君、慶喜君。彼女は何度も僕の名前を呼んだ。何度も呼んだ。そのたびに耳によみがえるのが、唸るような、恨むような、もうなにも感じないような、部屋の隅にまで響くそんな声。一体自分はなにをしているのか、こんなことをして、こんなことを続けて、いったいそれがどこに実ると、どこに結びつくというのか。僕にはだんだんそれが分からなくなってきた。意地だけが残っていたような気がする。

「そう。わたしってなんだかゾンビみたい」
ああ、この人はこんな風に笑える人だったんだな。自分だけのために、大きく、少しだけ紅潮した頬を上げて、こんな風に笑える人だったんだな。その日を境に、僕は彼女を度々この場所へ誘うようになった。誘うようにした。ここに来た彼女はよく喋ってくれた。他愛もないことばかりだけれども、ゆっくりと微笑んだり、止まったり、上を見上げたり、うつむいたり。いろんな表情で僕に話しかけてくれた。目は合わせてくれなかったにしろ、僕に対する好意のようなものを感じた。なめ回すような視線にも耐えた。恐怖だけは、なぜか感じなかった。それはきっと、僕が彼女を見下していたからなのかもしれない。

「ねえ、慶喜君」
ああ、またか。またどうでもいい話を聞かされる。そう思った。いつもそう、彼女の話をうすぼんやりとした頭で、僕は聞き入るように流している。そうなんだ、ふうん、おもしろいね、そういうのはよくわからないや、それでも彼女は食い付く。よっぽど今まで孤独だったんだろう。そのたびに僕は数々のえもいわれぬ感情とともに彼女に対して同情の念を抱く。だけど、その日は違った。
「わたしね、五年生のとき、教室で人を刺したの」
ああ、本当に君だったんだね。本当に、本当に。君だったんだね。ずっと、ずっと、僕は君の口からその言葉が生まれるのを待っていた。今がそのときだったんだ。今までの気苦労が一気にどこかへ飛んでいくような、ああ、そうか、やっぱり。それは夢のようで。でもそれは紛れもない現実で。知っている、知っているよ、僕は柚上汀を知っている。



7.

今、自分が置かれているこの状況、環境、すべて。それが理解できなかった。抉るような熱さ、いいえ、これは実際に抉られているの。わたしにはわからない、わからないけど、痛いのなら、きっとこれは夢ではないんだなあ。現実って大変。寝たり食べたり歩いたり、他にもいろいろ、そう、痛いとか。理解は出来ないけれども、心のどこかに冷静なわたしがこのわたしを見ている。見下ろしている。ああ、わたし、いま、すごく痛い。

慶喜君と旧校舎裏に座っていた。彼と交流を持ってから二度目の夏。体を溶かすうだるような暑さ、鼓膜を切り裂くようなけたたましい蝉の声、それでも慶喜君が居るなら耐えれる。なくなった教科書や大きく引き裂かれたノート、なにもかも、すべて、許せる。それがわたしにとっての慶喜君の存在。古典的な言い方をすれば「あなたはわたしの太陽」。夏ではなく、やわらかくわたしを温めてくれる存在。それが慶喜君、あなたなんだよ。いつもわたしの話をじっと優しく聞いてくれる慶喜君。ゆっくりと微笑む慶喜君。すべて、すべて、そのすべてをわたしはいとしく思ったし憧れもしたし、そんなあなたをわたしは目指した。他の人とは違うきれいな存在、わたしとも違うきれいな存在、それが慶喜君。わたしを殺さない、わたしから身を守らない、普通にしていてくれる、わたしの救い、慶喜君、慶喜君、ねえ、今、わたしの目の前にいるのは本当にあなた?一の字を描く唇は固くて動かない。上がりもしなければ下がりもしない。ねえ、あなたは、本当に慶喜君?
「橋本さん、血が出てるよ」
うん、そう、出てる。これはなんだろうね、慶喜君。なにかここにあるの。なんだろう。淡い緑色をした、これは、なんだろう?やっぱりこれ、痛いや。
「でも、橋本さんはもっとたくさん刺したんだよね」
ああ、そういえば、あのときのはさみもこんな色をしていた。なんだっけな、あの子の名前。どんなだっけな、あの子の顔。どんな声だっけ、どんな人だっけ、なんだっけ、もうわかんないや。それでもあの子はわたしを殺す人だと思った。もうあんまり覚えてない。半透明のフィルムを何枚も何枚も重ねたように、なんだかもう、あのときの記憶がぼやけてしまってる。
「三ヶ所だと思う」
「違うよ、四ヶ所」
わあ、慶喜君すごい。わたしより知ってる。どうして知っているかなんて気にならないよ。だって慶喜君はすごい人なんだもの。わたしとは、みんなとは、違うんだもん。
「痛い?」
「慶喜君、これ、すごく痛いよ、あのね、わたしすごく泣いてしまいそう」
「死にそう?」
「でも、あの子は死ななかったから、こんなのじゃ人は死なないよ」
不思議と悲しくなかった。不思議と怒りも湧かなかった。多分それは、慶喜君だから。そう、そうだ、慶喜君が、わたしを刺した。はさみで刺した。
「そっか」
慶喜君は淡々としている。いつもとおなじできれいな慶喜君。わたしの目の前にいるのはやっぱり正真正銘の慶喜君だ。わたしが、あなたを、間違うわけがないよね。鉄のにおいがする。
「柚上汀はね、死ぬかと思ったんだって」
「知ってる、言ってた」
「そっか」
そうだ、そう、柚上汀。わたしを殺そうとしたあの子の名前は柚上汀。ぼんやり曇る視界のなかで、わたしはようやくあの子を思いだした。そう言えばそんな名前だったなあ。慶喜君、こんな顔もするんだね。寂しそうな、つまらなさそうな。どうしたらよかったのかな、泣けばよかったのかな、怒ればよかったのかな、喜べばよかったのかな。でもね、わたしは慶喜君の顔を眺めるのにすごく忙しくて、そんな余裕はどこにもなかったんだ。
「僕と柚上汀、いとこ同士でさ、すごく仲がよかったんだ。でも」
なぎ、君に刺されたショックで喋れなくなっちゃったんだ。慶喜君はそう言った。わたしに刺さったはさみはもう自分の重みで抜けてしまった。ああ、そうだ、わたしね、ここ、刺したよ。わたし、柚上汀って子のこの場所刺したよ。あの子のはさみは抜けなかったけどね、だってすごく深く刺さってたみたいだから。そういえば、あの子はすごくびっくりしていた。その後泣いていたけど、わたしはなんだか泣く暇がないや。だってこんな慶喜君の顔を見るのは初めてだから、なんだか物珍しくて。忘れていた右腕から熱いものが滴っていたけれども、わたしにとっては夏の日差しの方がよっぽど暑かった。



8.

柚上汀を知っている。柚上汀を知っていた。真っ白い病室のベッドの上で小さく身を縮めたなぎは、まるでなにかの抜け殻のようで。魂が抜けたような。そんな彼女の姿に僕は心底恐怖した。今、この目の前にいるのは僕の知らない人だ。なぎじゃない。それに似たなにかなんだ。顔を埋めた体のすきまからもれる嗚咽は、唸るような、恨むような、もうなにも感じないような、部屋の隅にまで響くそんな声だった。それからというもの、僕の聞くなぎの声はそれ一つで、なぎの怒った声、笑った声、今までに見聞きしたなぎのすべてをその声が塗り替えていった。恨みを買うような子ではなかったし、そんな彼女を僕は心のどこかで好いていたんだ。どうして彼女がこんな風になってしまったのかなんて、誰も教えてくれなかったし、聞くこと自体がタブーのように思えた。たくさん想い出を共有したように思っていたけれども、今ではそんな姿の彼女しか思い浮かばないし、それ以外の彼女を思い出せない。そのときはただ、呆然とする以外になにも出来なかったから。

橋本真知代の名を初めて耳にしたのは本当に偶然だった。なぎの見舞いからの帰路に偶然耳にした他校生のうわさ話。なぎの名を出す自分と同じくらいの年頃の小学生。言ってはいけないことを言うような口ぶりと、自分の知っているなぎの名に思わず耳を傾けては、平然とした顔で盗み聞いた会話。心底震え上がった。これは僕に対するなにかの導きではないか、なんてことすらを真剣に感じた。はしもとまちよ、は・し・も・と・ま・ち・よ。心の中で何度も何度も唱えたその名前。止めようとしても止まらない体の震えに戸惑いつつも。橋本真知代。なぎを刺したのは橋本真知代。なぎを連れ去ったのは橋本真知代。なぎを消してしまったのは橋本真知代。どんな人物なのかは知らない。知りたい。彼女をなぎと同じ目に遭わせてやりたい。すぐに彼女の名前を覚えたし、学校にも行った。だけども彼女の人物像に対して全く情報を得ない僕には一体どれがあの「橋本真知代」なのかがさっぱりわからず、それはただの徒労に終わった。それでも僕は常に考えていた。名前しか知らない彼女のことを。

中学に上がり、名簿に彼女の名前を見つけたときは思わず歓喜したものだ。やっと、やっとだ。やっと見つけた、こいつなんだ。だけど、僕の探し求めていた「橋本真知代」は想像していた「橋本真知代」のイメージとは大分違い、死んだように生きていた。その姿はまるで、僕の知るなぎのぬけがらにそっくりだった。ああ、これがそうなのか、これがあの橋本真知代なのか。僕がずっと探していたのはこんなやつだったのか。周囲という周囲から虐げられ、見下され、蔑まれ、だれにも同情も哀れみも掛けられぬまま、死んだ魚の目をした女の子。衝撃だった。彼女に対し抱いた数々の感情を隠しつつも、僕は心の底から彼女に同情した。その感情は、まぎれもない真実だ。それほど彼女の置かれている状況は凄惨なものだったから。

彼女の受けているいじめの全てを僕は知らない。僕が今まで見聞きしたものはそのほんの一部なのだろうと、根拠はないけれども断言できた。そんな状況。口にするだけでも胃の中の物がこみ上げそうな、そんな環境。数々の彼女に対する周囲の仕打ちに僕は何度も目を瞑って来たし、何度も何度もそれは存在しないものとして扱ってきた。違う世界を感じた。彼女と今のなぎを重ねて見たりもした。憎たらしくて仕方がなかった。それと同時に、彼女がかわいそうで仕方がなかった。彼女に声を掛けたのは、彼女に同情したから。彼女に声を掛けたのは、彼女を恨んでいたから。僕に懐き、僕の名を何度も何度も心底嬉しげに呼ぶ彼女を見る度に、僕の自責の念はただ、静かに、ゆっくりと、大きくなっていった。彼女をなぎと同じ目に遭わせてやりたい。頭の中で何度も何度も、自分に言い聞かせるよう、ただひたすらに復唱する。もう意地だった。意地しかなかった。それしか僕にはもう残っていなかったから。今はもう見ぬ夢に未練がましくしがみつくように、今はもう見せぬなぎの感情を忘れぬように、ただひたすらに言葉を繰り返す日々だった。


9.

慶喜君はわたしを刺したけれども、彼はわたしを深く刺すことが出来なかった。慶喜君は座り込むわたしを見て、ちっとも表情を変えなかったけれども、ぽろぽろときれいな涙のしずくを静かにいくつも落とすのをわたしは見た。慶喜君の笑い方みたいにゆっくりと今の自分が置かれている状況を理解したとき、わたしは左腕で右腕を抱えると同時に、ただ慶喜君に見とれていた。それから、慶喜君のことをすごくいとしく思った。ただ、それだけで、右腕のうずきはそのついでのように思えた。わたしは今、世界でいちばんきれいなものを目に映しているよ。

しばらくすると慶喜君はゆっくりと、ゆっくりと地面に崩れ落ちては声を上げて泣いた。ほんとうに、僕がしたかったのはこんなことだったのかな、そう言っては泣いた。こんなにきれいに涙を流す男の子をわたしは見たことがない。慶喜君の丸まった背中を見つめていた。それだけ。そのあとは目の前が真っ暗になって、よくわからない。目が覚めたときは病室のベッドの上で、ああ、貧血かなあ、そう思った次の瞬間には慶喜君のきれいな涙を見た余韻に浸っていた。病室の静かさは心地よかった。まあ、それは、慶喜君の声程じゃないんだけれども、そんなことは当たり前だよね。慶喜君に優るものも、慶喜君に代わるものも、この世に存在しないってことをわたしはちゃんと心得ていたから。だって、そんなのって夢のような話だもの。学校の汚くてしつこい雑音も、視界に入る汚物も、なにもかもが思い出された右腕から流れ出たように思えた。慶喜君は今、なにをしているんだろう。慶喜君は今、どんな顔しているんだろう。いつもとかわらない、わたしの頭の中は慶喜君でいっぱい。そっと目を閉じては彼の姿を思い浮かべた。ああ、慶喜君、慶喜君、あのね、慶喜君、ううん、なんでもないの慶喜君。そう、願わくば、夢の中でもわたしにゆっくりと微笑みかけて。